自分の落ち度を指摘されると、その場逃れの嘘をずっと続けている人間がいる。
あっちでも嘘、こっちでも嘘と。
しかも、自分は悪くないかのように。
さらに、人が困っているときにはメールや電話は一切せず、自分が困ったときだけ、時間構わずにメールしてくる人間がいる。
誉められると全て自分の手柄にして、苦情は人のせいにする。
情けない限りである。
こういう人に限って、自分が上に立つべき人間だと、人を見下し、悪口しか言わない。
まさに、不毛だと思う。
たしかに、人間は誰しも欠点がある。
しかし、全てにおいてオールマイティーかのような態度をとる人間には、誰もついて来ないだろう。
好き勝手やって、クレームが来ると「僕は勉強が忙しいから」と勉強をしている自分は偉いと、上から発言して、人に責任を転嫁する人間は、残念ながら、社会常識が欠けている。
このような人間は、いくら婚カツパーティーに行こうが、すぐに化けの皮が剥がれる。
相手の女性は馬鹿ではないのだ。
本人は、相手の女性を見下した発言をしているが。
自分を知るためには辛くとも、等身大の自分を直視せねばならない。
良い部分もあれば、様々な嫌な部分もあろう。
そこから、虚を張るのではなく、一歩一歩踏みしめて進んでいくしかない。
等身大の自分を見ようとせず、僕は偉いからと自分で勝手に判断するのは、構わないし、個人の自由だ。
ただ、それを人に押しつけ、認めさせようとすることは違う。
謙虚さを忘れた人間に向上はない。
傲慢な人間に人はついて来ない。
日々は、新たな日々であり、新しいことが起こっている。
それを素直に受け止め、自分の無知を知ること。
無知は恥ずかしいことではない。
伸びしろとなるものだから。
無知を認めず、知ったかぶりをして、嘘をつく。
これは、自らの向上のチャンスを捨てている人間である。
高野悦子さんの「二十歳の原点」の 未熟であること、孤独であること。
そんな思いを、僕はたまたま、二十歳に「二十歳の原点」を呼んで以来、持っている。
高野さんと違うのは、未熟だからこそ、完成を目指せる。
孤独だからこそ、人は人を求めあう。
そして、傷付き、傷つけ、友情や恋が生まれると僕はポジティブに考えているところ。
同じ事象でも、解釈によって、答えは変わる。
様々な解釈を知るために、人は、時に嫌な思いをしたりしながら、学んでいる。
傲慢は、学びを放棄した人間である。
たしか、詩人の谷川さんが、
「万有引力とは互いに引き合う孤独である」
と書いていた。
傲慢な人間は、無理やり人を従わせたり、引っ張ろうとするが、一生 孤独 のままであろう。
傲慢な人間こそ、孤独を一番恐れているにも関わらず。
傲慢ゆえに、孤独を心の内に秘めることが出来ないのだと思う。