霊視で現実世界をカウンセリングして解決いたします。
霊能・スピリチュアルだけのアドバイスだけではなく、人が日々生きている現実世界との調和が必要だと思っています。
そのため、法律資格や現実世界の学びも生かした、総合的なカウンセリングとコンサルティングをしています。

魂の叫び

本物の霊能者とは?

本物と呼ばれる霊能者を沢山見てきた私が言えること…。

テレビにはでない。

(そもそも出る理由がない)

広告を雑誌にのせない。

(わざわざ載せる理由がない)

霊能者も、

人間ですから、

生活はしなければなりません。

しかし、

テレビに出て、有名になる理由はないですし、

雑誌に、広告を載せるのに費用をつかう人はいません。

あと、

よく、

本物の霊能者はお金を取らないと言うデマがあります。

 

その言葉は、間違っています。

本物の霊能者は、

当然お金をもらいます。

本物の霊能者は、

命を懸けて仕事をしているからです。

お金を取らない霊能者は、

お金が単にとれない仕事しか出来ないのだと思います。

つまり、

自称霊能者で、

効果はなくても、

みんなにチヤホヤされたい人は、

無料で良いでしょう。

霊能者として、

除霊やご先祖供養をしたふりをしたら良いのですから。

ただ、

それだと生活が出来ませんが、

どうやって暮らすのでしょうか?

仏像を売ったり、〇〇の石などを売っておられたりします。

本当は、営業職の方々だったりします。

私は、

本物と呼ばれる霊能者をそれなりに見てきました。

最後は、

多くの人は人間を信じれなくなり、

人里離れた所で、

寂しい所で、… 続きを読む

元気がない人へ

どうしたの?

元気ないの?

私のおやつあげるから、

元気だして。

(さくら より)

「霊能者とは」

神や仏とは、受け取り手によって変化するものだと思っています。

私は、「宇宙」のようなものが、神や仏であり、こちら側受け取り手の能力や時に応じて、神や仏といった形をとるのだと思っています。
情報を送る側も、何らかの形を与えた方が楽でしょうし。
「宇宙」では、「滅び」「誕生」が日々繰り返されています。
それが「神」で、「復活」となったり、「仏」で、「救済」としてとらえられているものだと思っています。
我々は、今、連面と「生命」のバトンを受け取り、受け渡しもしています。
それは、我々に、バトンを渡してくれた「先達」がいたからに他なりません。
それは、「ご先祖」と呼ばれているものだと思います。
だからこそ、今ある自分のために、「ご先祖」に感謝する、という立場で私は考えています。また、「神」や「仏」が常に「神社」や「お寺」にいると考えるのも、単純すぎる考え方ではないかと思います。
「タレント」の「家」に行っても、「タレント」は常にいるわけではありません。
テレビに出てること、チャリティーに出ていること、遊んでいること、様々だと思います。

霊能者としての私は、「神」や「仏」は常に「神社」「お寺」にいるとは思っていません。
もっと、気まぐれな存在だと思っています。
だからこそ、「神」か「仏」とを繋ぐものとして、霊能者がいるのだと思っています。
また、「預言者」と呼ばれるものもそうかも知れません。

「神」や「仏」は偶発的に、様々な場所に降りてくる。
その中で、「霊能者」にとり、「繋がり」易い場所がある。
そこを介して、「霊能者」は「言葉」を「紡ぐ」のではないでしょうか?
ある「霊能者」にとり、良い場所であっても、他の「霊能者」には合わない場所もあり、その辺りを理解し、「紡ぐ」のが、「霊能者」の役目ではないでしょうか?

そして、その「紡ぐ」相手が「善なる」ものか、「悪しき」ものかを判断するのも、「霊能者」の役目ではないでしょうか?
単純に言葉を紡げば良いというものではないと思います。
その意味でも、「霊能者」は常に「社会」と関わり、自分の位置と可能性を見いだしていくことが必要だと思います。
「社会」から「隔離」された場所で、いくら無理な「理想」や、「言葉」を伝えても、地に足がついていない空虚なものとなるのではないでしょうか?
「霊能者」ほど、「社会」に寄り添う必要があると思います。

「死」を見ていて感じるもの

人や動物の生死についてご質問を受けます。

私自身も、人や動物の生死をみて、心を痛めたり、不条理に禁じる時もあります。
ただ、皆さんとは、違い、
「薄い幕」のようなものがあります。
自らが、当事者の時ですら、変わりません。
人は、「現状」を維持したい。
しかし、「現状」とは、実は様々な奇跡に寄って成り立っているものだと神か、仏か、宇宙か、ろくでもないは、言います。
その非常に危うい状態を皆さんは「普通」とお考えになっているのかもしれません。
「死」や「不幸」はいつ訪れるかは、わかりません。
大事なことは、その時が来てしまった場合に、
「やることはやった」と思える境地でしょう。
これを「覚り」と呼ぶか、「明鏡止水」と呼ぶかは、お任せいたします。
日々、自らの力が試されていて、神か、仏か、宇宙か、ろくでもないものは、見ている。
そのためもあって、「努力」もしないで、必死に「願い事」をしても叶わないと思います。
そこには、「あくまでも自分の欲望」を最優先する状態が隠れているからです。
「見返り」を求めすぎなので。
人のお役にたったら、さっさと忘れてしまうことです。
いつまでも、「してやった」にこだわる執着鬼になるべきではありません。
また、「このお役が仕事の貯金になる」と下世話な考え方でするべきでもないと思います。
自らの「施し」の貯金ばかりを考えて、沢山の人への「感謝」や沢山人々が「支えてくれている」ことを忘れるべきではありません。
私は、世の中の想定する「優れた人間」ではありません。
単なる「凡人」です。
だからこそ、「人への感謝」「努力」をすててしまうと、最悪な状態になるだけです。
私は、皆さんに感謝し、皆さんの幸せを日々祈っています。
しかし、それは、皆様に従うということではありません。

 

「安定」「不安定」 「真理」「絶対」「可能性」


人は、「安定」を求めます。

しかし、「安定」というものはなく、人生は「不安定」なものだと、神様か、仏様か、宇宙か、ろくでもないものかは、告げます。
この「不安定」をいかに考えるかによって人生はみのり豊かになるのではないでしょうか?
「安定」ということは、「固定」されているのです。
「不安定」とは、「固定」されていません。
「悪い方向」に向かうのか、
「良い方向」に向かうのか、
「固定」されていない以上、
「可能性」があるのです。
そして、その「不安定」さは、心の持ちようや、考え方、様々な要因にも影響されます。
人生は、「今の一時点ではありません。」
私は、「人生」とは一生をかけてつくっていく作品だと思います。
それは、「未完」に終わるかもしれません。
しかし、そのような「可能性」を持てるとこに、また、「可能性」を使えることに、人間の素晴らしさがあると思っています。
私は、「宗教」をやってるわけでもありません。
だから、「宗教」を信じる方々のように「絶対」「真理」と述べることには抵抗があります。
「絶対」や「真理」も「固定化」されたものです。
私は、人間の「固定化」された安心感を求める気持ちもよくわかりますが、
やはり、「不安定」であれ、「自ら」の「可能性」を追及していくことが、良いのではないかなぁーと思います。
単純にいうと、「自分で限界を決めるな」ということになります。
「可能性」をどんどん広げて、
死ぬ時に、「幸せだったなぁー」と自ら言える。
そんな鑑定を心がけています。