崇仏論争で、蘇我氏・聖徳太子・秦河勝らと物部氏・中臣氏がぶつかり、蘇我氏の勝利におわる。(丁未の変)
中臣氏とは、中臣鎌足、つまり藤原氏である。
中臣氏は代々、式次第をつかまってきた。式次第とは、簡単に言うと、行事の司会者である。
それは、神々を祀る儀式である。
そのことからも、神々を祀ることに、ウマミ があったのであり、仏教になってしまうと、 ウマミ が少なくなってしまう。
そこで、出雲・物部の神々の側へと付いたのである。
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そして、物部氏が破れたことから、物部氏の祀っていた出雲・物部の神々は追放されていくのである。
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しかし、神々を追放しても社は残る。
また、仏教を信奉したという聖徳太子自身は神々に誓いをたてるなど、神々も祀っていたのである。
聖徳太子の建てたとされる、四天王寺周辺にも聖徳太子が建てたとされる社がある。
法隆寺にも鬼門は斑鳩神社があり、当時の境内にも龍田神社がある。
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出雲・物部の神々を名前の上では追放しても、社が存在する以上、新たな神を置く必要があるのである。
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そこで、秦氏が関わってくるのである。
秦氏は現在の京都にいて、莫大な富を持っていた豪族である。
新羅からの渡来人である。
養蚕・河川整備を行い、莫大な富を得たのである。
その秦氏が祀る神々が 稲荷である。
稲作の神である。
そして、その稲穂を食べる、ネズミや雀を食べる狐を、神の使いである眷属とみなしたのである。
秦氏は、今の嵐山駅の渡月橋の辺りの河川整備を行い、稲作の耕地を飛躍的に伸ばしたのである。
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その秦氏の神々が宿る場所は、伏見稲荷と松尾大社になる。
伏見稲荷と松尾大社の場所をよく観察してもらいたい。
そう、伏見稲荷は、後ろに山があり、近くに鴨川が流れている。
また松尾大社も、後ろに山があり、近くに桂川がある。
そう、秦氏といえども、初期においては、出雲・物部の神々の祀り方を完全に消し去ることはできなかったのである。
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伏見稲荷のご祭神はウカノミタマとされる。これは、前述した通り、水の神である瀬織津姫の名前を変えたものである。
稲作には水は必要不可欠だからである。
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松尾大社のご祭神は、大山ぐい神である。
これは、スサノオ・大国主の名前を変えただけの「蛇」神である。
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秦氏は、出雲・物部の神々の名前を消し去って、名前を代えていくのである。
そして、新羅からの渡来人である秦氏の道教的な思想、仏教的な思想もを取り込んでいくのである。
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その結果、出雲・物部系統の「生け贄」「死者の甦り」「死者の鎮魂」と言う、死後の世界に重点を置く考え方から、
秦氏は、「お供え物」・詣ると御利益があるとする「現世利益」への考え方にスライドしていったのである。
ただ、「祟る」ということだけは、消し去ることができなかったのである。
だから、現在の神社は、御礼参りが必要とされる。
また、稲荷はお供えをしないといけない、御礼参りにいかないと、「祟られる」という考え方が残っているのである。
また、伏見稲荷から、鳥居の色が朱塗りにされていくが、これも中国からの四神に対応して、南の朱雀を現している。
つまり、南の南都こと、大和からの結界を意味するものである。
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昔、「蛇」が神とされたことは、述べてきた。
そして、想像上の竜に一番近いものとして、「蛇」が考えられた。
また、「蛇」神とワンセットの「水」神を含めて、「蛟・みずち」として想像されていき、竜神へと繋がったのである。
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その結果、出雲・物部系統の神々は、竜神・龍神へとも変化していき、神々の名前は消し去られていくのである。
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秦氏がこの様な「神々の改竄」事業を行えたことは、1つに寺社をつくれるだけの莫大な財政を持っていたことにある。
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葛城氏は、聖地として神々が住むとされる金剛山を祀ってきた神官である。
全国の上加茂・下鴨神社の総本宮である高鴨神社があり、近くには高天も存在する。
このような祭祀に関わる葛城・加茂氏が京都へ移るに際して、資金援助したのは秦氏であり、その結果、葛城・加茂一族を取り込んでいくのである。
その結果、秦氏は、神官たる名門の葛城・加茂の権威を用い、「神々の改竄」に加わるのである。
このようなことが更に加速していく。
本来、神系統であった中臣氏が藤原氏となる。そして、神々を詳しく知る藤原不比等が歴史を編纂していくことになる。
藤原不比等は、物部氏の移動を禁じて、自らが「神々の改竄」を積極的に押し出していくのである。
その結果、出雲・物部の神々は書き換えられていく。
さらに、物部は「もののふ」=武士の語源から、「もののけ」と認識されて追放されていくのである。
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