縄文・出雲・物部と語り継がれた神々とはどのようなものであったか。
敗者の歴史は改竄されてしまうものである。
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出雲・物部と語り継がれた神々とは、「祟り」「生け贄」を求める神々である。
さらに、出雲・物部の神々とは、「死者の甦りと鎮魂」である。
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出雲・物部の神々は、「死の世界」に赴き、甦った神々、スサノオと大国主を主体とするのである。
そして、「死者」が甦ることから、「鎮魂」が必要となるのである。
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スサノオ・大国主の正体は、「蛇」である。
蛇は、冬眠したり、脱け殻から脱皮したりする。そして、マムシ等に至っては人を死に追いやる。
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これが、「死者の甦り」に繋がり、そして、「祟り」となる。
さわらぬ神に祟りなし、蛇をさわらねば咬まれて死ぬことはない。
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そして、出雲・物部の神々は「生け贄」を求める。
昔、干魃や祈祷の際は、馬を川に投げ込んだり、牛を殺して捧げたりしたのである。
現在の神々には「生け贄」を捧げていない。
これは、仏教の殺生を嫌う考えと、秦氏を主体とした神官達が、出雲・物部に繋がる神々を系譜から消し去っていったからである。
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出雲・物部の神道の拠点は、石上神宮である。
そして、石上神宮には、出雲の神々と物部の神々がいる。
この出雲・物部の信じた神々は物部神道へと繋がっていく。
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出雲・物部の神々は「祟る」のである。
三輪山にある大国主を祀る大神神社、そして、石上神宮。
2つの神々はひどく祟る。
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崇神天皇は、三輪山の大国主に「祟ら」れて、大国主の子孫、太田田根子を探しだして、大国主を祀らせている。
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石上神宮から、武器や宝を取り出そうとしては、天皇は祟られてしまうのである。
それはごく当たり前のことであり、出雲・物部の神々は「祟り神」であり、その神々の「鎮魂」をおこなってきたのが、物部神道なのである。
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そして、「生け贄」の儀式も行っていた。
現在もその名残がある。
絵馬である。
出雲・物部の神々には、馬や牛を「生け贄」としていたが、仏教的思想と加茂・秦氏の神官達による、「新しい」神道が創られていき、「生け贄」の儀式は表面上は消えていったのである。
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また、出雲・物部の神々は、岩倉に降りたつとして、岩倉を重視した。
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この出雲・物部の「死者の甦り」と「死者の鎮魂」・「生け贄」・「岩倉」の信仰は、葛城・加茂と秦氏により、物部神道として、歴史から排除されていくのである。
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歴史から排除すれば、信仰はなくなるのであろか。
そのような単純なことはない。
やはり、当時の人間の思考には残るのである。
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仏教であれば、死者は浄土へと旅立ち、この世には戻らないはずである。
しかし、神道では、死者は神となるのである。
その結果、この世に戻ってきて、「祟る」のである。
だから、古代の大王は、代替わりごとに都を変えて「穢れ」や前大王から逃げようと考えた。前大王の殯もして、わざわざ「鎮魂」も行ってきたのである。
「祟り」を恐れていたのである。
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そして、その際たる「祟る」神々こそが、都より追放され、伊勢へと鎮座することになるのである。
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伊勢神宮は「祟り」神々なのである。
だからこそ、明治天皇まで、歴代の天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのである。
皇祖神とされながらも、歴代天皇は参拝しなかったのである。
つまり、伊勢は古代の神々の系譜を引き継ぐ、「祟る」神々とされていたのである。
いくら、藤原不比等らが、神々の名前を代えて祀らせても、当時の人間は知っていたのである。
そして、「祟る」神々をそのような場所に追放したことから、自らが祟られることを畏れて、斎宮を置き、封印をしたのである。
そのような場所だからこそ、封印をした天皇は「祟り」を畏れて、参拝しなかったのである。
熊野は詣でても、伊勢には決して行かないのである。
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「祟る」神々とは、「悪いもの」と、とらえられるかもしれない。
しかし、そうではない。
「祟る」ことが出来るという巨大なマイナスの力を持つことは、祀ることでプラスの力に変えることができる、そうも考えれるのである。
だから、祟り神々を丁重にもてなせば、巨大なプラスの力を持てる、という思考に繋がるのである。
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太陽の反対は何であろう?
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答は太陰である。
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では、太陰とは何か?
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月のことである。
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太陽と太陰は表裏一体のものであるとする道教的な思想も後に不可されていくのであろう。
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現に、秦氏の秦河勝が静岡県に起こった道教的な現世利益思考の教団組織を鎮圧している。
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これは、出雲・物部の神々が表舞台から、その姿を消し、葛城・加茂と秦氏の神々へと変えられていく時期でもある。
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