幸せになりたいと思いながら、幸せを自ら失っていく人もいる。
そんな人を愛しく思う人もいる。
精神神経科の医師たちと、長時間話すことがあった。
幸せになりたいと思っている人は、「自分が好きすぎる」人が多い。
次々に要求が出来て、今の状況の有り難さがわからないのだと。
そして、次の要求がかなわないと、自分は不幸と決めつけてしまう。
自分で不幸を作り出し、呼び寄せているのだ。
また、自分らしく生きる!=相手に我慢させるが、きづいていないと。
また、相手に指摘されることもある。
あなたは、○○さん、○○さん、もやっているから、当たり前と勘違いしているのではないか?と。
交際相手の地位や、身分に拘る人もいる。
私の父親は、身体障害者だった。
母親は、お金もちのお嬢様。
当然、反対された。
今から、60年以上前である、障害者への差別は厳しかった。
しかし、母親は堂々と交際した。
父親も身体障害者の手帳をつかったこともない。
私は、身体障害者に全く偏見を持たずに育てれたのはそのおかげだ。
交際を隠さねばならないのは、交際相手の地位や身分もあるだろうが、それ以上に、
「私」が面倒くさいことに巻き込まれる、ということが嫌なのである。
「私」が好き。
「私」か第一というのがある。
常に、「私」からしかものを判断出来ないのである。
「面倒くさい」を免罪符に使って、自分を護るのである。
交際相手が、日陰に扱われ続ける気持ちがわからないのだ。
交際相手は、堂々と相手に光の当たる場においていても。
そうして、相手は疲弊していく。
「私」が一番というルールを無意識に押し付けていることにわからないから。
それは、相手への命令なのである。
というのも、同じことをされたら、
「私」が、一番の人は許さないからです。
そして、
手元にある幸せは、手のひらの砂のようにこぼれて、二度とは戻らない。
しかし、
相手のせいか、周りのせいにする。
何故、自分がそうなるかを顧みないからである。
そして、
自分は、不幸だと感じる。
不幸な場と感じて、
不満をいう自分が不幸を作り出しているのち。
自分自身が、目標や、夢をもって、幸せに向かって行けばよいのに。
私の体験
本当に悲しいときは涙はでない。
気を張っているから。
そして、
しばらくして、
どっと疲れと虚無感がやってくる。