霊能力者としての視点でみてみたい。
霊視である。
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三輪山は、私にとり蛇に視える。
また、石上神宮は、呪術の感じと厳しい感じがする。また男性が出てくる。
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伊勢の内宮では男女が出てくる。
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熱田神宮の正殿では、女性が出てくる。
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貴船・下鴨神社では女性が出てくる。
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高野山では、仏として出てくる。
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いわゆる、神や仏と呼ばれるものであろう。
私にとり、神であろうが、仏であろうが、宇宙であろうが、名称は関係ない。
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また、植物が、妖精や老人となり、語りかけてくることもある。
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ある、霊能者と話した時に、
「あなたには、キツネがついているのが視える。尻尾が沢山あり、よく動かしている」
と、言ったら、
ある霊能者は、
「そう!稲荷を信仰しているから」
と言われたこともある。
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思うに、神々や仏と呼ばれるものを受動する側の能力により、神々や仏と呼ばれるものは、姿を現す。
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キリスト教者は、聖霊やマリアと受け取り、仏教者は、仏として受け取り、神道者は、神と受け取る。
そして、そのように、彼らには視える。
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同じ、霊態をみても、私には神・仏・霊・様々な生き物に映ったり、キリスト教徒には聖霊として映ったり、仏教者には仏として映ったり、神道者には神に映ったりするわけである。
これは、霊能力者の受け取り方に左右される。
また、霊能力により、鮮明さも異なるであろう。
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私が、霊、神、仏、聖霊、とバラバラに視えるのは、私自身が特定の宗教観に染まっていないことでもある。
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だから、ある霊能者が仏と視えても、私にそう視されるとは限らない。
また、霊能者により、神にこだわったり、仏だとこだわったり、する方々がいるが、私には関係ない、ナンセンスな問題であると思う。
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霊をどうとらえ、クライアントに伝えていくかが、大切であり、霊能者個人の宗教観を伝えたり、押し付けるべきではないと考えている。
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霊能者個人の宗教観の押し付けにより、霊態を無理矢理ねじ曲げたり、枠にはめてしまい、霊や霊の言葉を間違えて伝えてしまっては意味がない。
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霊能者は、あくまでも、霊態やクライアントを主体にすべきである。
霊能者の宗教観を押し付けることは、布教活動である。
それは、霊能者の努めとは違ったものであると考える。
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私は、霊態を、カラー映像・音声・語り合い・臭い・触感など、で受け取っている。
音声のみや、映像のみの霊能者もいる。
それは、霊能者の能力によるものである。
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霊能者の能力という不確定なものに、さらに宗教観などを加えてしまうと、さらなる不安定な状態を生み出してしまうと考えている。
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私は、霊態がどのように映るかより、伝えてくる内容が大切であり、また、クライアントが大切であるという立場を生まれてからずっと維持している。
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