霊視で現実世界をカウンセリングして解決いたします。
霊能・スピリチュアルだけのアドバイスだけではなく、人が日々生きている現実世界との調和が必要だと思っています。
そのため、法律資格や現実世界の学びも生かした、総合的なカウンセリングとコンサルティングをしています。

私の宗教観 社会学的に(霊的にではない)

共産主義国家では宗教は許さません。

簡単にいうと、宗教は「貧者の麻薬」だからです。

つまり、「苦しい人々こそが宗教を必要とする」と言う意味です。

そして、共産主義になれば、「みんなが等しくなり差別は無くなるから、宗教は必要なくなる」と考えるのです。

共産主義になる前の段階の社会主義(資本主義が残っている段階) では、まだ資本主義的な考え方の残りかすを引きずるから、宗教は断ち切り、共産主義思想へと導かねばならないと考えるのです。

私は一面は的を得ていると思います。

苦しい時、困った時に、

人は「宗教」を必要としてきました。

死を考えたり、死に望む人間にとって、「死」という答えに面した時に、「宗教」は答えを与えてくれます。

また、資本主義を勝ち抜いた資産家も、競争の過程で「人々を打ち負かしたことへの罪悪感」を感じたときに、「宗教」による救いを求めるのだと思います。

簡単にいうと悪いことをしたから、地獄へ行くのではないかと考えるということです。

つまり、精神的には、苦しみを感じている人間と、

経済的には、裕福な資本家と貧しい人間とが、

「宗教」を切実に必要としていると私は思います。

単純に言うと、病気や問題がない限り「宗教」は必要とされない。

普通に暮らしていると、特に「宗教」は必要ではない。

(「宗教」と使っているのは、「宗教」には哲学も含むからです。)

以上が、私が社会学的思考によって考えてきたものです。

そのような視点で、日本をみてみましょう。

古代は「食物の豊かさ」が祈りの対象となってきたと思います。

生きていく上で食物は必要不可欠だからです。

(男性器や女性をモデルにする、石棒や土偶です。)

日本は小麦と違い、米という栄養価の高い食物を手にすることが出来ました。

その結果、小麦粉に頼る文化圏より、いち早く絶対的な食物の悩みから抜けていけたのだと考えます。

「食物」の悩みから抜け出ると、

次は「病気」です。

「病気から助けてもらおう!」

そのため、奈良時代には薬師寺が建てられるなど、病気を治す薬師如来信仰が盛んになります。

そして薬師如来は東方瑠璃浄土を任されることになります。

(奈良県にも薬師寺・新薬師寺とあります。

ぜひ一度訪れてみてくださいね。

日本史にも出ますよ。

薬師寺の薬師如来が、平清盛に焼かれる前の大仏の顔とも言われています。また、薬師寺の塔は非常に綺麗です。)

しかし、平安時代初期になると一変します。

空海による密教が唐から入ってきます。

「加持祈祷」で、病気からの悩みが克服されると考えられるようになります。

その後、「この世」では助かったみたいだ・・・。

「でも死後は助かるのだろうか?」

という問題が浮上してきます。

「死後」も救われる、

とする阿弥陀菩薩による浄土教が広まっていきます。

豊かな貴族達、自ら寺や阿弥陀菩薩をつくります。

(宇治の平等院です。ここも綺麗なところです。10円玉に描かれています。

藤原氏は宇治に極楽を持ってきたつもりでつくったものです。)

しかし、裕福でない民衆には、立派な寺や阿弥陀菩薩は造れません。

また難しいすぎる仏教は民衆には、なかなか理解できません。

「それでは救われないのでしょうか?」

「そんなことはありませんよ、大丈夫」と、浄土宗が法然により民衆に説かれていきます。

親鸞が、人間だからこその迷いを取り込みます。

そして、時宗の一遍により「全ての人間は救われている」との答えにより完成します。

そして、難しいことは必要ではなく、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればいいという、簡単さから、民衆へと深まっていきます。

(阿弥陀如来は、願い事が達成され仏と成ったとして、阿弥陀仏に地位が上がるのです。

 菩薩とは、全ての願いが叶うまで救いを行います。そして願いが達成された時に、仏となるものです。

 そして、浄土宗・浄土真宗・時宗では仏にすべてを任せたらよいと考えていきます)

その後、「あの世で助かるまでは、この世は苦しみなんでしょうか?」

「そんなことはない。この世に極楽を持って来れますよ」と教えを説く人間が出ます。

日蓮による日蓮宗です。

日蓮は、自らが救済者だと考え、また仏であるとして、「南無妙法蓮華教」という題目を唱えることで願いが叶うとします。

(日蓮宗は、それまでの宗派と違い、自らが宗とつくものである。

空海宗や親鸞宗はありません。)

日本仏教にとり、宗教とは「救い」への「答え」であると私は考えます。

中国の白蓮教のようにわざわざ弥勒菩薩を下生する必要はありませんでした。

(弥勒菩薩とは、釈迦により自らの後継者として指名され、「全てのものを救済するとされ、56億7000万年後に下生してくる」とされる菩薩であり、日々救いを考え半跏思惟しています。 中宮寺や広隆寺の弥勒菩薩像が有名です。

 私は、中宮寺の弥勒菩薩像が一番好きな仏像です。中宮寺では如意輪観音像といいます。法隆寺の夢殿の横にあります。

弥勒下生説に対応して、弥勒上生説もあります。

 弥勒菩薩を待つより、直接弥勒菩薩の元へ行けばいい!とする考え方です。

空海は弥勒菩薩のところで一緒に修行していると考えるものまで出てきます。

 また、空海は弥勒菩薩が下生するとき、先導に立ち現れるとする考えもあります。この事から、全てのものが生き返るとして高野山に墓を造る考え方が出てきます。

高野山の奥之院にはお墓がめちゃくちゃあります。

あくまでもまだ、空海は修行中です。だから、高野山では空海は死んでおらず、日々の食事も届けらています。最近はパエリアなどもあるようです。)

このように日本では仏教は「民衆の救い」への「答え」として出てきたと思います。

そして、多くの新興宗教団体が、法華経思想から出てきました。これは、民衆が「現世利益」を求めているからだと思います。

今の民衆にとり、「今」を非常に大事なものと考えている表れだと思います。

神道も様々に変化していきます。

戦前は大本教や天理教のように神道の影響が強いものがあります。

神道とは、ものに対して、「神」を置く考えです。

稲穂に感謝。稲穂が神様。

肥料に感謝。肥料が神様。

というようにです。

仏教とは、受け取り手の人間の心に「仏性」を置くものです。

感謝できたり、悟れるのは、心に「仏」がいると考えるのです。

神道は「外」

仏教は「内」

この二つは日本では対立しません。

だから神仏習合となり一体化していきます。

釈迦の説いた仏教は宇宙と一体化することであり、そこに菩薩や如来などはいません。一神教に近いと思います。