« 伊雑宮
私は、人が幸せに生きるための手段がスビリチュアルであり、科学である思う。
昔から、「霊能力者」と呼ばれる者が無知から起こした事件が多い。
狭い部屋に閉じ込め、「祈祷の」煙で死亡させた事件。
狐がついていると、村民が暴力を働き、死亡させた事件。
(狐は、背中を叩くと出ていくと言われていた。)
謎の水を、万能薬とし、薬を止めさせること。
シャクティーパット事件。高橋氏がシャクティーパットと称し、病院に入院が必要な患者を連れださせ、死亡させた事件。
糖尿病の人間にインシュリンを止めさせ、死亡させる事件は複数ある。
大体、無知無学からくる。
糖尿病には、1型 2型とある。
1型は先天的なもので、インシュリンが必要であり。
よく糖尿病が治ったと言われるのは、食生活からおこる2型である。
ローカーボダイエット・低糖質ダイエットは、日本では江部医師が広めているが、実はアメリカのバーンスタイ教授の本のパクりである。
私は、バーンスタイ教授の原本を読んでいる。
バーンスタイ教授自らが、糖尿病で食生活を自分で人体実験して作った理論である。
しかし、最新の論文では、ローカーボや低糖質食は、2年後には、地中海式食事に追い付かれることが記されているが、誰も言わない。
こういうことが矛盾だろうし、不誠実な学問態度だろう。
人の命に関わるアドバイスをするならば、しっかり勉強すべきであろう。
職業のアドバイスについても。
お金をいただくプロなら、絶対に楽をしてはいけない。
適当なことをいうべきでない。
相談する方は悩んでいるのであり、アドバイスを受けやすい状態にある。
悪用すれば、マインドコントロールをして、殺戮者も生む。「正義」と称し、「神」と称し。
得てして、極端なものはオカシイ。
宗教は言う。必ず言う。正しい教えは迫害される。
だから正しいと。
しかし、だから、正しいは成り立たたない。
迫害されるものは全て正しいのであれば、今のドイツではヒトラー礼讚は迫害される。
ヒトラーは「正しい」から迫害される。
だから、ヒトラーは「正しい」。
おかしな理論。単なるトートロジーにすぎない。
正しいなら、殊更に広めなくても良いだろう。広まらないのは人間がダメなのであり、「神」に「正しい」世界をつくってもらえばいい。
迫害されたから「正しい」と無邪気に信じて行動することが問題であり、させる人間は一番の問題であろう。
カラマーゾフの兄弟の有名な場面で、人は自分を背負っていき、責任をとり生きるのは難しい。だから、我々神官が罪としり、罪を背負って、信者に考えなくても良いようにしていると述べているではないか。
釈迦が正しいから、みんな釈迦になるべき。
私「無理です。」
みんなが、出家して托鉢ばかりしていたら、誰がものをつくるのか?
みんな、ホームレスである。
キリストは、残念ながら誰の子か、わからなかったのだろう。マリアは複数男性と通じていたのだろう。
それで、悩み、悪魔と戦う。
釈迦は、悟ったのは「荒行」ではない。
スジャータ・スンジャータ、どちらでも良いが、彼女からもらった1杯の乳。
荒行三昧して、自慢しているわけではない。
そのような制約を取っ払い「生きる」ことの大切さに気づいたのだ。
キリストは、誰の子か、悩み、悪魔(自殺やモラル)と闘ったのだろう。
結果、そのような制約を取っ払い「生きる」ということが、一番大事だと考えたのだ。
自分自信を背負って、その決断に責任をとり生きる。これを自由という。
自由とは、自ら由るべし。自らを頼りとしろと言う、福澤諭吉の造語である。
しかし、英語には、二つ「自由」がある。
Free と Riverty である。
前者は日本の「自由」「ワガママ」である。
後者は、「自由の女神」の自由である。
自由の女神は、たしか、The statuy ob riverty であり、足に切られた鎖がついている。
つまり、解放からの自由である。
「チャタレイ婦人の恋人」は不倫である。
だから、ダメと読んではいけない。
ロレンスが、言いたいのは、ビクトリア時代の「清く」という制約の欺瞞からの、人間性の解放である。
日本と言う国は、酷いモラスメントを感じる。
何故?
私。結婚する直前まで「セックス禁止」、結婚後から「孫の顔がみたい」「孫はまだか」とセックスを煽っている。
だいたいセックスを悪いものと、一刀両断するなら、世の中の人間はセックスから生まれているに、悪いことから生まれたのであろうか?
動物は、多用性をもつため、様々なパートナーと性行為をする。
これは動物だから。というのは人間のおごりである。
霊でも、神でも、自然でもいいが、それらは、人間も動物も全く同じ行為として区別しない。
だから、フリーセックスしろと述べているのではない。
人間は法律という制約をつくっている。
人間は、いかに「現実」と「心の中」のバランスをとるかで生きざるを得ない。
また、その決断の責任を取らねばならない。
「生きる」には、時に「現実」の制約を外さねばならないときもある。また、「現実」に無理やり「心」を合わせねばならないときがある。
「お前は好きかって言っている。」
私は、その通りである。戦争のど真ん中でもない、安全な中で述べている。
単なる凡夫にすぎないからである。
だから、「欲」がある。
私は、「知識」と「食べもの」への欲が強い。
なかには、性欲、ファッション、様々な欲が強い人もいよう。
それでいいのだと、私は、言いたい。