死者の声に耳を傾ける。
死者の声を聴く力を望む人がいる。
しかし、
死者の声が、
自らの望むものでなかった場合に、
その人はどうするのであろうか?
死者の声は、
我々が望むものとは限らない。
死者は、我々にとって都合の良い奴隷ではないのである。
向こうの世界をわかるには、
そのことをまず、知らねばならない。
死者の声を聴く力を求めるものは、
まず、
死者に丁寧であり、
謙虚でなければならない。
そして、
誠実であること。
死者の声を聴く力は、
死者が与えてくれる。
つまり、
死者とは御先祖様である。
御先祖様が、
実は願い事を叶えてくださっていることを良く知らない方々が多い。
神は見返りを求めないかわりに、気まぐれである。
願い事をすぐに叶えてくださるとは限らない。
すぐに叶えようとなさるのは、御先祖様である。
間違えてはならない。
その御先祖様すら、大切にできない人間が、
願い事ばかりするのは本末転倒であろう。
苗字は変わろうとも、
御先祖様から繋がるものがあるのである。
自らの願い事を必死にする方々がいる。
悪いこととは思わない。
ただ、
自らの願い事があまりに叶わないならば、
自らの好きな寺社で、
時に、
御先祖様の供養や感謝を願ったり、
祈願や供養を申し込まれるのも、
1つの手段だと思う。
願い事への道は、1つではない。
自らの視野が狭くなっていないかを、考えてみることも大切だと、私は思う。
願い事は、夢に繋がることもある。
ろくでもない願い事をする人もいよう。
しかし、
全てが人間である。
泥臭いものである。
泥の中にこそ、蓮の花は咲く。
清く正しい世界だけを押し付け、
実現できるならば、
人間世界は必要はない。
清濁併せ呑む世界だからこそ、
人間世界に意味はある。
隠遁して人間世界から逃げることは、
世捨て人ではなく、
自らが世に捨てられた人である。
キリストもマザーテレサも、聖人と呼ばれる人間は、
むしろ、人間世界の世の中へと飛び込んでいった方々である。
逃げても、逃げても、逃げきれないものはある。
自ら自称するものと、
周りの評価は往々にして違うものである。
感謝と真心、そして、謙虚であること。
一文に過ぎないが、実践し守ることは難しい。
御先祖様に、感謝と真心をもち、謙虚でいることは、
なおさら、難しいことであると思う。