曇天の下で、義務的に身体を動かす。
無理にでも、何かしらの理由をつけないと身体が動かない。
重い身体。そして重い心。
光のささない、海底にいるように。
義務的に身体を動かすが、心は動かない。
機械になったように。
時間や社会は流れていく。
積み残した作業と仕事を抱えたまま。
しかし、最小限でしか身体は動かない。
義務的にでも。
そんな時期は、誰にでもある。
その時間が長く続くのか、短く終わるのかが、わからない。
だからこそ、人は不安になるのだと思う。
そこから逃げだそうと、身体を捨て去るものもいる。
自分が、今、まさに存在しているという、重さを支えられなくて。
「死に至る病」
キルケゴールを思い出す。
身体を捨て去ることが、最大のつみではなく、絶望に至ることが、死に至るのだと。
キルケゴールは、キリスト教から教えていく。
絶望に至ることは、キリスト教で説かれた「永遠の命」を捨て去ることだと。
フランクル氏の「夜と霧」
フランクルはアウシュビッツ・ビルケナウ収容所の数少ない、生還者。
彼の数多ある著作では、丁寧に収容所での心理が描かれている。
収容所から、出ることが出来ないと知った収容者は、思考を停止する。
考えることは、苦痛に繋がるから。
そして、感情を失くしていく。
腹が立つことがあり、怒っても良いことだと、私は思う。
そういった喜怒哀楽の感情を、空中に散らせて、身体の中を空っぽにしてしまうより。
クリスマスのイルミネーションを飾り付けるれた樹木も、ストレスで枯れることもある。
感情というものは、大切なものだと思う。
カミュの作品に、「シーシポスの神話」がある。
神の怒りをかった、シーシポスは大きな岩を山の上に転がして置くという罪を課される。
シーシポスが全身で岩を山の頂きに置くと同時に岩は転がっていく。
それご永遠に続く。
しかし、シーシポスが微笑みを浮かべる所で物語は終わる。
神は、アダムとイブが知恵の実を食べ、神と同じように知恵を身につけたことから、エデンの園を追い出された。
「神」は、
「2001年宇宙の旅」のように、我々をつくったが、進化が気に入らず、滅ぼそうと考える思想もある。
宮崎アニメの「ナウシカ」から繋がる、現代文明と我々の進化の方向が間違っているという考え方である。
手塚作品に強く流れて、大友作品の「アキラ」にも流れている、我々は間違った方向に進んでいるのではないか?という考え方である。
ただ、全知全能の「神」が、
我々を作ったのであれば、進化の方向も「わかって」かいたはずではないか?との疑問が浮かぶが…。
「神」は、全知全能ではなく、
人類と同じく、「間違いを犯す」ものということであろうか?
ダンテの「神曲」で、地獄にいるにも関わらず、神に向かって、手で女性器を表すように全く反省しないものも含めて、「神」がいるなら、我々を生み出したと私は思うが…。
「感情」の表現の仕方は、時に不快感を与える。
しかし、
それを圧し殺し、
感情を消し去っていってしまうのであれば、
それは、
生きていることを否定していってしまうのではないだろうか。
冒頭のような感情であっても、
生きているだけで良い。
生きていることは、今は答えを出せないが、「いつか」は答えを出そうとしているのだと、私は思っている。
焦る必要はない。
心が動かない人へ
「落ち着いて」
「ゆっくり」
と、私は思っている。
開き直る必要もないが、
卑屈になりすぎる必要もないのだから。
頑張れとも思わないし、
声をかけることも出来ない。
ただ、
私は、寄り添っていることしか、できない存在に過ぎない。