« 日々感謝
今の世の中をみたら、キリストと釈迦は全ての宗教を批判するだろう。
宗教団体の立派な建物を建てるお金があれば、困った人に与えよと。
釈迦もキリストも、大寺院や大聖堂は建てていない。在野で教え人である。
私も、教えを説くなら、ボロ小屋で十分と思いもする。ましてや、インターネットなら、ボロ小屋もいらない。
しかし、人の話をボロ小屋で聞かれるのも、ボロ小屋に入るのも、人は嫌だ。
だから、それなりの建物は必要かもしれない。
でも、自分の家を売って、必死に寄付をしてまでして集めさせてまで建てるものでもないと思う。
寄付が義務になってはいけない。
仏、神、自然は願い事を叶えるのに「いくら払え」とは、述べない。
だからこそ、みんなは困る。
何故?
「命」と答えられたらどうするのであろう?
しかし、建物や、人、ものを使う以上は、お金がいる。
だから。申し訳ないが、私もいただく。
私は、凡夫にすぎない。
そして、それでいいのである。
人は、生まれながらに、実は救われている。
地獄などない。あれは単なる方便にすぎない。人が救われていることをしったら、悪さをする人間がいるからだ。
ただ、人は救われていると言っても人により異なる。
例えよう。
人は、大阪から東京までの切符を全員もっている。
しかし、普通列車、快速、途中まで新幹線、全て新幹線、飛行機と様々な切符がある。
また、途中で終電で下車しなければならないこともある。
これは、生まれた家系の因縁や、自分が蒔いた種、いろんなものがある。
しかし、最終的には救われる。
ただ、一生が満員電車や、ホームからの転落のような方もいる。
苦しい一生、奴隷の一生、いきなり殺される、事故など。
これは、次の人生を待つしかない。
私がやっているのは、その方たちに、切符を取り替える手伝いや、より早い電車にのるため、安全に乗ってもらうという、手伝いに過ぎない。
因縁や因果は、線路に置かれた石であり、私は、それを取るお手伝いをしているのである。
あくまでも、私自身が飛行機や新幹線ではない。
また、切符でもない。
前回の釈迦やキリストに戻る。
みんなが、喜んで出したものだからこそ、寄付といい、釈迦やキリストは受け取ったのだろう。
これが義務なら、釈迦やキリストは受け取らない。
釈迦は、捨て、去りゆく。キリストは、叩き捨てるだろう。
どんな立派な建物でも、義務や箔付けのためなら意味がないのである。
その建物に、寄付したときに、本当の意味をもつのだと思う。
間違えてはいけない。私自身が、寄付をよこせ、建物を建てよとは言っているのではない。
私は凡夫である。
私は、「自分の嫌なことを人にするな」と言っているのであり、「自分も今、要求をしたから、貴方も一つ私に言って下さいね。」、それが平等ですからと言っているのである。
私自身は、仏、神、自然と呼ぶものから、「真心と感謝」があればいいと伝えられている。
「真心」が汚れると、ものがみえなくなり、「感謝」が出来ない。「感謝」ができているうちは、「真心」が澄んでいるから。
と教えられている。
そして、私自身は、「自分の嫌なことを人にするな」と思っている。
人に、「正しい道」を教えよう、「宗教で人をすくおう」をやろうなど、大それたことを考えていない。
単純に、お手伝いできたらと思うだけである。
あくまで、皆さんが主人公なのである。
私は、時に単なる「道化」に過ぎないのである。
皆さんは、生まれながらに救われている。
みなさんは、宝くじをもっている。
ただ、何回めで当たるか、である。外れはない。
だから、大丈夫。
自分で、どんな種を蒔くか。
怒りの種はたわわに実る。人からの感謝を期待してはいけない。
あの世に、善行貯金はない。
これは、良いこと!と思った瞬間に打算となり、そして、自分自身で善行をしていると思う人間を「善人」と呼んでいる。
だから、「善人なおもて…」と親鸞が言った言葉は、その意味で正しい。
焼き肉を喜んで人は食べるが、殺された牛、牛を屠殺している人を考えない。
汚い、後ろめたいことは、見たくない、見ないのである。
それを見ないで、「善」と言っても、「善人」ではないのである。