霊視で現実世界をカウンセリングして解決いたします。
霊能・スピリチュアルだけのアドバイスだけではなく、人が日々生きている現実世界との調和が必要だと思っています。
そのため、法律資格や現実世界の学びも生かした、総合的なカウンセリングとコンサルティングをしています。

スピリチュアル

常に無限の可能性がある

自分を責めてばかりいると、自分の窓が小さくなり、見える景色も小さくなります。

自分を責めるのではなく、視点をずらしてみるのも大切なことだと思います。

自分を責めることに必死になったり、罪悪感をどこかで感じ続けるのではなく、
目の前の現象を消し去って、

自分って何ができるだろう
自分に何が見えるだろう

と思ってみてはいかがでしょうか?

最初はなかなか、心が動かないかもしれません。

でも、
街に人がいるなぁー。
雨だなぁー。
晴れだなぁー。
何を食べようかなぁー。

と、小さくてもいいので、
発見があると思います。

それは、さっきより自分の窓が広がって、見えるもの増えた証拠。

その小さなものを大切にしてほしいなぁーと思います。
小さなものから、自信も生まれます。

自分を責めたり、
罪悪感を感じる。
それも人間です。

でも、そのせいで、
自分の無限の可能性を小さくしないでくださいね。

皆さんには、無限の可能性があることも、忘れないでくださいね。

神様の居ます所

古代の信仰は、山である。
山に神がいる。
そして、死んだ人間も神となり、山に住む。

古い形式の神社は、
山や、木が御神体である。
山だと、大神神社、出雲大社。
木だと、石上神宮、香取神宮。

農耕が始まっても、山は神聖なものとされている。
山からの湧水や、谷の川はまさに神が宿るものとされる。

私は、
みんなが、別に神社や、お寺を崇拝すべきとも思わない。

神様は、神社にいる。
だから、願い事を参りにいこう!
という考えは、ちょっと違うんじゃないかなぁーとは思う。
神様を、神社に閉じ込めて、
願い事の聞いてくれる便利なものと思う考え方が根底に流れているのではないだろうか?
神様は、そんなに小さなものではあるまい。
神様を閉じ込めれると考えているなら、
傲慢な考え方ではないだろうか?
霊能者の役目は、
神を降ろす仕事である。
つまり、神は常に神社にいない。
降ろさないとやってこないものである。
もしくは、神様の気まぐれで降りて来ることもある。
山が神であるように、
水も神である。
我々人間の身体の70%が水であるならば、
そこに神は宿るのであろう。
ならば、日々の自分の言動を大切にすることも大切ではないだろうか?
日々の言動は無視しておいて、
遠くに神様を求める。
本末転倒のような気がする。

シンクロ

久しぶりに、身体がシンクロしました。

喉の奥から、
胃の入り口が痛い。
焼け火箸をつけたられたような感覚でした。
水も飲めず、

口に含んでました。

友人やクライアントとシンクロしてしまうことが、
私にはあります。
大体、

重くなる可能性がある、症状を持つ方ね場合です。

しかし、
今回は、

数日で治まりました。

きっと、
軽くすんでくださるはずです。
病状の回復を心より、祈っております。
個人的な感想として、
オペの後に、
誤嚥性肺炎を防ぐために歩かせるのが、
一番辛い。
そしてリハビリもです。
できる限り軽くなってほしいなぁーと思っております。
まだ、
幸い、
私の所のクライアントからは、
新型コロナや
大病の話
聞いていません。
クライアントも含めて、
皆様が健康で
幸せでおられることを日々願っております。

お金が入る方法 運気アップ

お金が入る方法をよく質問されます。

で、方法はあるのか?
と言われると、
「あることはある」
になります。
皆さんが信じたり、
実行なさるかは、
別として。
では、お金が入る方法について。
それは、
「適度にお金を流す」
ということです。
私は
神か、仏か、宇宙か、ろくでもないものか、
から聞いていることは、こうです。
「お金には欲がびったりとくっついている。」
ということです。
だから、
「お金を集めてばかりだと、欲望の淀みを造る」
ということです。
それを解決するために、
「淀まないように適度に流してやる。」
これが、お金が入る方法だと言われます。
「欲望の淀みでいっぱいだと、お金の入る余地はなし」
と。
では、
「適度に流す」
とは、
どのようなものでしょうか?
それは、欲しいものを買う、
遊びにいく、
自己啓発、
寄付、
人にプレゼントをする、
いくらでも方法はあります。
適度に使って流すのが良いと思います。
私個人として聞いているのは、
人にプレゼントしたり、
人のために使う、
ことが、一番良いと言われてます。… 続きを読む

神様 仏様 宗教 人生 真心と感謝

神か、仏か、と判断されるのは受け手の側の問題だと思っています。

昔、ある霊体を視て議論しました。
神道の方は、「神」だとおっしゃられました。
仏教の方は、「菩薩」だとおっしゃられました。
キリスト教の方は、「天使」だとおっしゃいました。
私は、横で見ていて、同じ「霊体」が、こうも変わるのかぁーと冷めてみていました。
私には、単純に「霊」でいいでないかと。
人は、生まれて育ちます。
その時の環境による影響は多大なものだと思います。
そのときに、近くにあった宗教の考えに添って考えていくのは、理解できます。
つまり、私にとり、それは受け手の側の問題、好みに過ぎないと思っています。
「猫」を「にゃんこ」「キィティ」「キャット」と呼ぶように。
つまりは、同じものを、我々受け手が好きに呼んでいるにすぎないと思っています。
「霊」が「神」と名乗るときは、私は神様と言っています。
「霊」が「仏」と名乗るときは、私は仏様と言っています。
私にとり、「神」「仏」「宇宙」は、全て同一のものであり、それを受け手がどう判断するかによって変わるものだと思います。
皆さんも、神が好きであれば、神と呼べばよい。
仏が好きであれば、仏と呼べば良いのです。
輪廻転生、最後の審判があろうとも、
「この人生」
はたった一回きりです。
その人生を大切にしていこう。
そして、自分の人生がそれだけ大切なのだから、自分以外のものも大切にしていこう。
私は、そう思っています。
私の考え方は、共感されないかもしれません。
また、共感する必要もありません。
ただ、自分以外のものを、宗教や考え方で、
簡単に切り捨てたりしたくはありません。
微力で力になれないことがあっても、一緒に悩みという重荷を背負えると思います。
私自身の「真心」と「感謝」を大切にして。