霊視で現実世界をカウンセリングして解決いたします。
霊能・スピリチュアルだけのアドバイスだけではなく、人が日々生きている現実世界との調和が必要だと思っています。
そのため、法律資格や現実世界の学びも生かした、総合的なカウンセリングとコンサルティングをしています。

幸せと不幸

病気が流行り、

「自分もかかるのでは?」と過度に、思いだすと、
不安がやってきます。
この不安に飲み込まれすぎることは、
さらに
「不安」

を呼びます。

最終的には、
「全て」が
不安に繋がるのです。

(お釈迦様は、このことを説いていますね)

自らを

「不幸」
と考える人は、
「不幸」
をさらに呼びます。
そして、
自分だけが
「不幸」

だと考えます。

周りは幸せなのに、
自分だけが不幸!だと、
勝手に「自分」で起きている事象に
勝手な「意味」をつけます。
事象にどのような「意味」を自分自身でつけるかによって、
物事の方向、意味は変わっていきます。
哲学でいう「現象学」ですね。
そして、
中には、

自分が「不幸」だからと人にまで押し売りしたり、

自分が一番「不幸」だから、

人に何をしても良い(自分以外は全て幸せな人だから)と考える方もいます。

このような考えに至ると、

「世界中」の
「不幸」を
「自分」が
「背負わされて」

いると考えてしまいます。

絶望にいたる人、アナーキニズムに走る人、宗教に走る人、あらゆる人を攻撃する人、等々。

哲学では、「死に至る病」(キルケゴール)に出てくる、絶望した人のことです。

残念ながら、その人々には、
「空気」を吸えている
「生きている」という
当たり前の、
「目の前」のことにすら、
「感謝」
出来ない状態です。

これが
「傲慢」
と呼ばれる状態です。
自分の「理想」
のみが
「幸せ」
であり、
その「理想」の状況にない場合は、
全て
「不幸」
と、一人で判断なさってしまうのです。
こうなると、
今の目の前の状況は、
「不幸」
全て考えて、
周りにも振る舞います。
自らが
「不幸」教
のご本尊
と言わざるを得ません。
いわば
一つの「宗教」を確立させてしまうのです。
一つの「宗教」となった以上、
周りにも布教活動をなさります。
周りにも、「自分」のみが、
「不幸」
と考えている方々が集まってくると思います。
しかし、
「不幸」教徒以外の方々には、
その人たちこそが、
不幸なのです。
目を開けば、
空気は見えないが、
空気はあり、
空気は吸える。
そして、
言葉を発して
文字も書ける
このようなことを全て当たり前ととらえてしまい、
「自分個人」の「理想」のみを人に押し付ける人は
まさに
「不幸」
だからです。
病院で今にも生き絶えようとしている人を、
想像すらできないし、
平気で、
「自分」の方が「不幸」
とすら述べれる人になります。
お葬式の場で
泣きくずれている人にすら、
「自分」の方が
「不幸」
とすらいい放ちます。
病気で苦しんでいる方にすら、
「自分」の方が
「不幸」
平気で述べます。
なぜなら、
「自分」
より、
「不幸」
「人間」
「この世」
「存在」
しないからです。
このような場合、
周りの優しい言動も
全て違って「解釈」されてしまいます。
「不幸」教徒
の心は
「自分」
「理想」
に満たされない限り
「信心」
し続けるのです。
「不幸」教徒以外の方々は
それが「悪い」と一概に決めつけるのではなく、
そのように
「不幸」と常に感じ
「不幸」を呼び寄せている
ことを
「学び」に変えていけば良いのです。
「不幸」教徒の
「自分」
「理想」
は、
「不幸」教徒以外には、
「自分」も
「理想」も
一切分からないです。
分からない人間もいると、
知ることは、「謙虚」に繋がります。
分からない人間がいるから、
排除しようとすることは、「傲慢」に繋がります。
私は、
宗教家ではないのですが、
単純に
「真心」「感謝」「謙虚」さが大切だと、
「神」か「仏」か「宇宙」か「ろくでもないもの」か、からは教えられています。
そして、
皆様にただ、言えること。
「不幸」教徒
には「簡単」に「手」を差し出してはいけないということです。
「不幸」教徒の抱きつてくる力は強く、自らの心まで「不幸」になりかねないからです。
不幸な方々に手を差し伸べるのと、
「不幸」教徒に、手を差し伸べるのは違うということです。
違うということは、「区別」が必要だということです。
「差別」はいけませんが。
その意味で、
「全て」が「不幸」と考えている方々は、
「不幸」なるかな
と、聖書の逆の意味に通じます。
自分の理想は、自分で叶えていくこと。
叶わなくても、
努力した自分は、
今までの過去の自分とは違って、
一回り大きくなっているのです。
叶わないことを「全て」を
「不幸」
考えるのではなく、
その中で思わぬ習慣があることも知ること。
夢や理想が叶なかった直後は「不幸」で辛いものは当たり前。
その場に生き続けるのではなく、
当たり前と思っているものを、
見つめなおす。
「空気」「時間」「健康」「お金」「周りのサポート」など、
様々なものが見えてくるのではないでしょうか?
日々の幸せは、以外と単純な所にある。
「青い鳥」はすぐ近くにいるのです。
それを「感じれる」か、
「感じれない」か、
が「幸せ」を逃して、
「幸せ」に気づかないことにつながるのだと思います。
幸せの神は、「髪」は豊富にあります。
前髪だけではありません。
安心して、身近なものを見つめてみる。
見つめれる「心」をもてることが、
「幸せ」でもあり、
「幸せ」に繋がるのだと思います。