霊視で現実世界をカウンセリングして解決いたします。
霊能・スピリチュアルだけのアドバイスだけではなく、人が日々生きている現実世界との調和が必要だと思っています。
そのため、法律資格や現実世界の学びも生かした、総合的なカウンセリングとコンサルティングをしています。

宗教 キリスト教 スピリチュアリズム

スピリチュアルについて良くきかれるので、

私が感じていることをお話したいと思います。

スピリチュアリズムは、

やはり、
キリスト教の下地がないと出てこないものだと思います。

キリスト教は、

聖書に基づきます。
神が創造したという強固な「固定」があります。

一方、

スピリチュアリズムは、
キリスト教の強固な「固定」にたいして、
当時の科学である「進化論」を取り入れる違いがあります。

つまり、

「進化論」を認めるか、認めないかが、
キリスト教とスピリチュアリズムの分水嶺だと思います。

神が人物をつくった=進化論を認めない

魂は進化していく=魂の世界に進化論を持ち込んでいる。

これは、キリスト教は異端を認めなかったため、

近代科学主義からの反動運動だと思っています。

仏教では逆にこのようなことはおこりません。
仏教は、次々と新しい教典がうまれ、

まさに「異端」が生まれていくものだからです。

私には、
キリスト教とスピリチュアリズムの戦いは、
非常に大雑把ですが、
徳一の法相宗と、

最澄の天台宗の戦いのように感じます。

徳一の人に「差」をもうける考え方と、
最澄の人に「差」をもうけない考え方のように見えてます。

キリスト教は、

「固定」化の結果、
自縄自縛に陥っているようにみえます。

また、
スピリチュアリズムも魂に「差」をもうけすぎた結果、
百花繚乱のように、
好きにいったもの勝ちのようになってしまっていると思います。

「戒律」を重視するキリスト教と、

「戒律」にとらわれないことを述べるスピリチュアリズムの極端なものに割れていってしまっていると思います。

まさに
南都仏教の法相宗を背負って「戒律」を大事にする徳一と、

「戒律」を減らし、自己の修行という自由にゆだねる最澄のぶつかり合いとも似ていると思います。

「戒律」を強くしすぎりると、

「戒律」にとらわれた奴隷になる。

しかし、
「戒律」を緩めていくと、
「戒律」にとらわれない結果、好き勝手な人間が現れる。

「戒律」に捕らわれすぎると、

まさに中世の魔女狩りになる。

「戒律」を無視すると、
独りよがりな考え方を「神」と決めつけてしまう。

まさに、バランスが壊れてしまうと悲劇を生みます。

極論は必ず間違いです。

その意味で、

私は、
「進化論」を悪用するスピリチュアリズムには同意しかねます。

また、

古く時代に適合しない、「聖書」に拘るキリスト教にも同意できないのです。

だから、

何かの宗教や宗派にどっぷりと、
私ははまることができないのです。

宗教は、

「人を幸せにするもの」
と私は単純に思っています。
それがお互いに「正義」の旗を掲げて戦うのは、間違っていると思っています。

特定の宗教を信じて、

自分が幸せになるのは、良いと思います。
しかし、無理やり人にすすめたりするのは、
違っていると思っています。

勧誘することに必死になり、
自分自身を磨くことを忘れている人間を沢山みてきました。

まずは、
自分自身を磨きあげ、
その姿を見て、
一緒の宗教に入りたいと思っていただけるのが、
真の勧誘ではないでしょうか?
個人的に、
宗教勧誘している、
キリストや釈迦は見たくないし、いないと思います。